2023/05/31

自分史(ネットレイティングス時代)2000年~2006年

続いて、仕事時代の第三ステージに入っていく。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・ネットレイティングス時代
21世紀の始まりとともに始まるネットレイティングス時代だ。振り返るとITバブル崩壊(2001年)直前のITバブルの熱狂期に、自分もベンチャーでIPO長者だなんていう下心が全くなかった訳ではない。日経BPよりも約2割年収は落ちたけど、あわよくばIPOで戻ってくるストックオプションの利益があるかもとは思っていたが、その時点で実現していないでぬか喜びすることもなかった。

ネットレイティングスは米NetRatingsと日本の複数の出資者の合弁で1999年半ばに設立され、米NetRatingsがサービス開始しているネット視聴率サービスを日本でも展開しようということで、準備を開始していた。その真っ最中の2000年1月頭から参加して、データ収集後の集計に関わるサイト分類などを担当し、2000年半ばで日本でもサービス開始に漕ぎつける多少の助けにはなっただろう。入った2000年頭には、赤坂の小さいビルの2階で社員が10人超くらいだった。

そして人は増えていき、近くのビルの広いフロアに移る。データのリリースは週次と月次で行うのだが、それも軌道に乗り始めたところで、自分は新規事業開発を仰せつかるのだが、本業も立ち上げたばかりでその次を考えるのはなかなか難しくて成果は上げられなかった。まっさらの0から仕事を作るのは苦手だと思ったが、自分で何かネタを探し当てたら、その0を1にしていくのは目標が明確なので好きだったかもしれない。

そうこうしているうちにデータの信頼性に問題が生じることがあったりして、品質管理チームリーダーを仰せつかり、出荷データの信頼性向上に寄与する仕事に。そして次のバージョンの製品にするためのサイト分類の超労働集約作業とかもやった。こちらも何をしなければいけないのかは明白だし、粘り強く地道な作業をコツコツできる俺の本領発揮という時もあった

目まぐるしく時は流れ人も増えたので、時期は定かではないがやがて、出資しているトランスコスモスの渋谷のビルに移った。その後だと思うのだが、右目のコンタクトレンズがやたら曇るなあという不思議な現象に悩まされていたのだが、実は緑内障が進行していて視野欠損が始まっていて見づらくなっていたということがわかり、残りの半生は少なくとも右目は靄がかかったような状態が続くということに。まあ、そんな中、トランスコスモスのビルは高くて非常階段も素晴らしかったので、また昼休みの階段上り下りのトレーニングをやっていたこともあった。昼はもちろん自作の弁当持参だ。

ネットレイティングス在籍中に最大で40人くらいは社員(含む派遣)はいた気がするが、全員知っているので具体的な話はしないでおくが、一言で言えば、みんな個性的だったなあという印象。まあ、同じ釜の飯じゃあないけど、結構ツライことも多く共有したから嫌でも多少深い付き合いになったからだろうなとも思う。ある程度相手を深く知らないと仕事もスムーズに運ばないのも事実だ。ただ、飲みに誘われれば行くが、公私ともにべったり仲良くなった人はここでも特にいなかった。まあ、独立後も暫く仕事で付き合いが長く続いていた人物はいたが。

一方で、もう組織の中で生きていくのはいい加減面倒だなあというマグマが溜まって最終形の独立に突き進むための後押しになったかもしれない。いわゆる30人の壁とか50人の壁とか、そういうところで一皮むけていく段階も経験した訳だ。

在籍中、米本社の方でアクセス解析の会社「Red Sheriff」を買収した。日本にもその子会社があったので、ネットレイティングスに取り込まれる。これで他社比較ができるインターネット視聴率と、自社サイトの詳細データはアクセス解析ツールで、という両輪が揃った感じになった。ただRed Sheriffのツールはそれほど高度なものではなかったので、製品としてはパッとしない感じだった。ただインターネット視聴率の方も大体わかった積りにはなったので、すぐにこちらのアクセス解析の方を担当させてもらい、その後のGoogle アナリティクスまみれになっていく準備段階に入る。

平行して、前述した通り、組織の中で生きていくのは終わりにしたいということで、どうしたものかなと考えてはいたかも。いきなり独立しても何か見込みがある訳でもなかったし、現実的には退職した会社から仕事を貰う的なリクルート方式が可能性としては高いかなあ、など当時の会長とも相談させて頂き、詳細は書かないが円満退社して独立することができた。

会長には入る時も出るときも大変お世話になった。恩は全く返せそうにない経営者として成功者なのかはわからないがw、人として尊敬できる人物だった。「取る(take)」から入る人が殆どだと思うが、彼は「与える(give)」から入る手法の人。若い人には圧倒的に「give」を先行させよと、自分は最近説くが、自分の独立後の経験もそうだが、やり方を間違わなければ、何倍にもなって自分に返ってくる。急がば回れの精神が大事ってことは染みついた。繰り返すが、個人的にはこの恩に対しては半分も返せてないのだけどねw

ネットレイティングスでは6年半という期間の割には、様々なことがあったが、まあ前職末期の20世紀末のインターネット視聴率のゼロからの立ち上げからの、21世紀のアクセス解析との出会いに跨る10年は特にエキサイティングだった

プライベートでは、中古で乗り換えた一戸建てが築30年に迫り、2階の重さで1階の一部の引き戸が動かしにくくなるなどガタがきていたので、新築に建替えたのがこの時期だった。2カ月くらいだったか、近くの廃アパートになる1階の2軒分をぶち抜いて仮住まいさせてもらった。一番上の子が中学生に、一番下はまだ小学生以前と上から下までの年齢幅が7歳もあると様々な行事ごとなどでバタバタしていたか。

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