2023/05/31

自分史(~小学生時代)

仕事もそろそろやめることになるし、今までの人生を軽く振り返って、現在の記憶や記録などから整理しておくのも良かろうということで、書いてみる。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・幼稚園まで
生まれは東京都のどこかだろう。5歳程度までの記憶はゼロ、大泉学園に住んでいたらしい。記憶にある最初の風景は、桜台に移ってからの幼稚園だ。恐らく園長先生を除いて、同級生含め人の
記憶は全くない。

・小学生時代
小学校は普通に最寄りの学校へ行った。1学年は約50人で6クラスだから300名くらいいたと思われる。1-2年/3年/4年/5-6年と3回クラス替えがあり、それぞれを担任した4名の先生と、音楽/図工の先生の顔は思い浮かぶ。図工の先生からビンタを何度も食らったことは記憶に鮮明に残っている。なぜなら、中学以後体育会系部活に入るような学生生活になるが、一度も指導者や先輩後輩間での暴力を体験していないので、余計に記憶に刻まれている。親からは悪さをしたときに、たまに尻をペンペンされることはあったが、基本的に暴力とはほぼ無縁でいられた。

校舎の教室や体育館、プールや校庭や遊具に至るまで比較的鮮明に覚えている。学校前には文房具屋さんがあった。学校前の狭い路地で、毎月学研の「学習と科学」の露店販売で賑わっていた記憶がある。通学路以外の細い怪しい道もよく通ったものだ。

通知表が残っているので、それを確認すると、6年を通して、年間の欠席日数は一桁と少ない。心臓に穴が開いているなどと言われていた割には、今振り返ると、病気がちで欠席が多かったのではなかったということだ。自分でも虚弱で弱いイメージだと思い込んでいたようだ。

算数の成績は2年生から基本的に5段階の5、体育は1年生から4以上、5-6年は音楽図工以外はすべて5。低学年から算盤塾に通っていたので、それが算数を上達させたことは間違いないと思う。学外では低学年からピアノ教室や書道教室に通ったけど、長続きはしなかった。興味も才能もなかったということ。学校の通知表の通信欄を読むと、授業態度は6年通して概ねよい/凡ミスが多くて勿体ないといったコメントが多く、4年生までは私語や大声の指摘が散見する。指摘されればきちんとするけど、放っておくと落ち着きはなく自由奔放っていう感じだったのかなと。

意識して特定の友人と群れることは特になかった。先生が変わった3回のタイミングでクラス替えもあったが、同じクラスで仲良く遊ぶ友人はすぐに作れていた印象だ。6年間同じクラスだったのが二人いたのは覚えている。最後の5-6年のクラスメートの記憶はそれなりにあるが、4年以前の記憶は薄い。そして彼らとは中学以降の交流は一切ない。自分は苗字も名前も特殊だから、いじめの対象になったかというと、6年間通してそういう記憶はない。

給食はパサパサのパンにマーガリン、牛乳におかずという時代。美味しいと思ったこともなく、残さず食べろという指導は当時からあって、給食はどちらかというと苦痛だった。朝の便通も快便ということもなく、腸の調子は不安定だったので、現在に至る「食に興味がない」原点はこの辺りから始まっていると考えられる。

運動会、修学旅行、卒業式などのイベント事には興味がなかったせいか、それらの記憶は殆どない。修学旅行で就寝時の2段ベット?みたいな風景だけ微かに覚えがあるが、どこへ行ったのかすら記憶にないw あとイベント事は大抵体育館の2階(1階はプール)で行われていた。学校行事ではないが、高学年の頃に大阪万博があったが、父と兄は大阪まで見に行ったが、俺は興味がなく行かなかった。人嫌いではないが人と群れない、人混みは嫌い、イベントは面倒なだけで興味ない、という性格はこの頃からだ。

体格はチビだったけど、運動神経は良かった方だと思うので、校庭での遊びや反復横跳び/垂直飛びなどの俊敏性を試す計測では常にクラスの中でトップクラスだった。しかし持久力や筋力はなかったので、短距離/長距離/遠投みたいなものは普通だったと記憶している。そう言えば、学校の雲梯で遊んでいる時に持ち損ねて、背中全体で落下して10秒くらいだろうか息ができなくなったことがあるのが、死ぬかと思った最初の経験になるだろうか。まあ世間ではよくある事のようだが。

家での遊びは、庭に柿の木があったので木登り、庭の土を掘って泥遊びなどよくやっていた印象。親父や兄とキャッチボールはしていた気もする。バットでボール打ち返して向かいの家にボール取りに行ったこともよくあった。遊び仲間のお宅へ何人かで押しかけて遊びに行くことはあったようで、何軒かその家付近の光景が思い出される。自分の家に呼んだことはあまり記憶にない。めんこ遊びなど路地での遊びをしていたことが多かった気がする。

高学年になると、算盤教室もやめて進学教室に通い、ガリ勉君になっていったので、そのころから既に近眼でメガネをかけていた。進学教室で毎週のようにあるテストの上位100人?などが誌面で発表される。そこにランクインすることは殆どなかったが、志望していた私立武蔵中学に合格できた。その当時の塾の成績の記録などは一切保管してないので、よく覚えていないが、塾で一緒によく遊んだり話をする友人は何人か居た。平日夜の塾や、土日のテストとか2年以上よく通ったものだ。塾は中野にあり、テスト会場は池袋、四谷などが多かったような記憶があるが、いろんな場所に出向いたものだ。

まあ、ここまで総じて考えると、親には様々な教育の機会を与えて貰ったことへの感謝しかない。と同時に、基本的な身体的能力や性格はこの時代から変わっておらず、生まれつきのものが多いともわかる。

当時の町の様子を振り返ってみると、駅前は線路の両側にお店が沢山あり、本屋は複数、煙突の高い銭湯もあった。駅から少し離れた自分の家の近くにも、八百屋、酒屋、小さな医院や歯医者、畳屋があり、様々な商売が成り立っていた。上にも出てきた算盤塾やピアノ教室や書道教室なども街中にあった。そう言えば、金魚すくいもできる屋根のない金魚屋、少し遠くには私営のプールがあって、たまに行ったこともあるがいつも大混雑だった。チンドン屋が家の前を普通に通っていた。いろんな記憶が芋づる式に蘇ってきたw 近くに豊島園があったが、あまり子供の頃に行った記憶がないが、親が連れて行ってくれなかったのか、自分が行きたがらなかったのかは定かではない。

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