2023/05/31

自分史(大学時代)

自分史(中高時代)に続いて、こんどは大学時代について書いていく。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・大学時代
自分史(中高時代)で書いたとおり、大学は東大2類(
理2に入学した。東大は1-2年が教養課程と呼ばれ、理2だとそこの必修科目の他に文広く科目を選択して単位を取得していく。そして3-4年の専門課程に進むにあたって、自動的に進学できるところ(文1は法学部、文2は経済学部、理3は医学部へ進む)以外は、自分の行きたい学部学科を申告して、1-2年次の成績の上位の人間から定員を埋めていくという制度(進学振り分け)になっている。つまり自動的に進学できないところは、1-2年でもしっかり勉強して、行きたい学科に進めるように成績を上げる努力が必要ということだ。理2は、工学部を除いた理系と一部の文系に行くことが多い。

まずその教養課程1-2年の時期を振り返る。1-2年は駒場キャンパスで自宅から電車で通った。理系だと第二外国語の選択はドイツ語が主流だが、フランス語を選択した。1クラス60人くらいだったと思うが、クラスは同じ第二外国語を選択した理2と理3の人の混成で構成される。女子は理系の中では多めの10人弱、同じクラスに高校同期が2人もいたのは驚いた。手元に残っている4年間全体の成績表を見ると、1-2年の教養課程時代の細かい明細の記載はなく、優(80-100点)A/良(65-79点)B/可(50-64点)Cの成績別合計単位数くらいしか記載されていないが、教養課程の成績は7割程度が「良」といった感じ。東大で「優」が楽に取れる程の実力はなかったというところだろう。

そして入学して間もなく分かったのは、大学数学の抽象度の高さに愕然としたことだ。高校数学が少し得意くらいなレベルでは太刀打ちできない理系の専門課程に進んでもついていけないと判断した(実際はそんなことはなさそうだが)ので、教養課程の自分の平均点で行けそうなところを探して、文科系と理科系の中間みたいな「教養学部教養学科 科学史・科学哲学」に進んだ。1学年10人弱と小所帯で女子は二人、そのうちの一人は教養課程で同じクラスの女子だったのでびっくりした。3-4年の専門課程は普通本郷キャンパスにある学部に移動するのだが、自分の場合は専門課程も教養学部だったので、4年間駒場キャンパス通いだった。

3-4年は専門の科目は過半数が成績は「優」だったが、外国語は概ね「良」、卒論は指導教員にも付かなかったし、自己流でやったので「良」。実際やっていた勉強は専攻の「科学史・科学哲学」に拘らず、心理学とか、興味の湧く分野については本を読み漁っていた。今も関心分野は広く様々な学問分野の本を読んでいるが、この当時から変わっていない

交友関係だが、入学してすぐ、多分任意参加だったと思うけど、新入生歓迎旅行?みたいなものに参加したのは覚えている。泊りだったか日帰りだったか記憶にないが、そういう行事は確かに友達作りのきっかけになると思った。その後、同じクラスになった高校同期の二人と今更つるんでもなあ、新しい友人でも作りたいと思い、駒場キャンパスの敷地内にある駒場寮に住んでいるクラスメートの所に行ってみたり、いろいろとしてみたものの、まあ会話が弾むわけでもなく、中高までと同様に、特定の非常に親しい友人を持つに至らずといった感じになっていった。3-4年の専門課程でもそうだった。やはり一人が気楽で一番落ち着く性格は変わらない。空き時間の友は図書館だったかもしれないw

大学でしっかりやったと自慢できるものは勉強ではなく、体育会系の器械体操部で4年間活動したことだろう。体は柔らかい方だったので、最初のハードルは軽く乗り越えられた床運動以外に器具を使った種目が5つあり、これらも必須なのでこれらの上達には時間が掛かった。今まで全く使ったことのない筋肉を使うため、基礎筋力をつけるまでの孤独で長い鍛錬を経る必要があるからだ。練習場所は駒場キャンパスの体育館だったので、4年間その駒場通いだったのも良かった。大学時代の知人で今でも付き合いがある人は同級生は皆無で、体操部の同期や先輩後輩が殆どだ。

中高に体操部はなかったので、まったくの初心者だったが、ゼロから一つずつ教えて貰って上達していく面白みはあった個人競技なので上達すれば点数が上がっていくので、地道に努力を続ければ着実に上達していくことと、一人でできる競技というのが自分にピッタリだったので、器械体操は社会人でも現役を続けた。まだビデオカメラが高価だったのでできなかったが、自分の演技を撮影して繰り返し修正を加えて練習できたら、もっと早く上達しただろう。体の動きを知るということで、大学時代にパントマイムを習っていたこともある。バレエやダンスなども少し研究したものだ。

あと趣味的なところでは、一つ目はスキューバダイビング。山も好きだったが海も好きでスキューバのライセンスを海外で取得したのもこの時期。社会人になってからも含め、何回か東南アジア方面に潜りに行ったことがあるが、近場の国内では潜ってないし、それほど熱心でもなかった。目的地は風光明媚だが、まあ東南アジアは空港周辺含め一瞬たりとも気を抜けない危険な匂いがして、海外旅行はとにかく疲れた。あとは、自転車でもそれなりに距離があるが、自宅から駒場キャンパスに通うこともあったので自転車は結構乗っていて、奥多摩方面に一人で、あるいは器械体操部の強者と山中湖方面に自転車でツーリングに行くこともあった。

あとは国内の長期旅行に2回行ったことだろうか。北海道へは男二人旅、九州は一人旅だったと記憶しているが、どちらも10日~2週間程度、電車の旅で周遊券を使い、宿泊はユースホステルを利用するというもの。北海道の旅は台風直撃で道路が寸断され、知床半島だけ巡れなかったのが残念だったのと、九州は雨の山中で道に迷い、山であわや遭難という経験も。特に現地の人との交流もなく、旅行は自分には合ってないということが確定した時期かもしれない。今や部屋に居ながらにして、全世界の風光明媚な風景や美術館巡りもできるいい時代になったものだ。

話は逸れるが、大学教育まで含めて振り返って、日本の教育内容に一言。少なくとも自分に必要なかった教育として挙げられるのは、まず国語の作文。小中学校あたりの作文は殆ど感想文を書かせるだけ。感情表現は芸術系の授業に移してほしい。文学作品鑑賞や解釈みたいなものに正解はないんだし、積み上げ型の勉強になるものではない。国語は接続詞の使い方や論理的な文章作成手法などの訓練を繰り返しやって、みんなが論理的な日本語を話せる/書けるようにして欲しい。仕事でも、それはみんなが実感しているのではないだろうか?

そして、大学の第2外国語は意味がわからない。英語ですら10年教わってもまともに話せないのに、いわんやをやだ。2年間やる無駄は勘弁して欲しい。物凄く労力を割かされた。そして英語も大学でやるべきことなのか、大抵英文学を読むみたいな非実用英語しかやらないし。やるなら、専攻学科を英語で授業したらどうだろう

そして最後に就職活動について触れよう。前述のとおり、勉強は広く浅くしかできない自分が、学問を究めるなどという選択肢があるはずもなく、すぐに就職して稼いで独り立ちする道以外に考えられなかった。理系の工学部などだと、教授がメーカーと通じていて就職の際に推薦して決まる場合が多いようだが、そういうツテは無かったので、自分の場合は自力のみ(学科の先輩などのコネもツテもなし)で普通に正攻法で当時の就職協定を完全に順守して就職活動を行い、2-3社から内定を頂き、希望の会社からの内定を頂いた。

コネは無かったし、そういう恩の貸し借りみたいなのは昔から嫌いだったので、一般試験と同じで、普通に受けて内定を貰って入社する以外の方法に興味もなかった。当時はパソコンが流行り始めた頃で、当時人気急上昇のNECに入れた。まあ、大企業で人気企業に無難に入っておこうという程度のことしか考える能力はなかったし、仕事とは何か右も左もわからないので、それでよかったと思う。とにかく渦中に入ってやってみないことには始まらないという考えは、今でも変わっていない

就職先に関しては、教養学科全体としてはカバーしている専攻分野が広いので、先輩たちが行く先は様々な業種に亘っていた。分野の近い学科の卒業生の就職先はメディア企業が多かったので、NHKとかも候補だったが、就職試験を受けた記憶はない。あとは、入る気はなかったけど、何事も経験と思い(なぜか)リクルートを受けてみた。性格診断的な?ペーパー試験の後、数人ずつの集団面接までは記憶がある。集団面接はみんな自己主張が凄くて、俺が俺がという人たちの受け答えに圧倒されたというか、この賑やかな人達とは仕事したくないなと確信したことは記憶している。この辺りの対人意識は昔から変わっていない

武蔵への入学も、東大への入学も、NECへの就職もゴールではなく、単なる新しい始まりの初期値でしかなかった。が、またそれら一つ一つが重要な分岐点でもあったと思っている。仕事をする前提で必要となる基礎体力、基礎知識、最低限の道徳性は、なんとかクリアできていたのではないだろうか。人としての道から外れることなく踏ん張った自分を褒めてやりたいし、親からの支援、様々な良好な外部環境があったことには感謝しかない。

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