2023/05/31

自分史(独立時代)2006年~2023年

続いて、仕事時代の最終ステージ。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・独立時代
さあ、いよいよ自分で会社を作って仕事だ。初めから誰かを雇う積りはなく、大きくする野望もなく、最後まで一人取締役のみという株式会社だった。初めからある程度の仕事は持っていて独立できたので、いろいろと試行錯誤する時間が持てたことも幸いし、幕を閉じる2023年まで17年余り存続できたことは幸いというしかあるまい。社名にはいろいろな思いを込める人もいるだろうけど、自分は何のこだわりも無かった。自分の中でどうでもいいことと判断したものには、時間を掛けることはしない。結論を言えば、娘が発した単語を聞いて「それだ!」ということで決めた。

何事も経験だということで、法人登記、社会保険の手続きなど全て必要なことは自分で走り回ってやった。経費を節約するということよりも、実際に自分で行動して社会の仕組みを自分事として体験すれば、不合理な面もおかしな慣習があることも知ることができるので、なるべくやるようにしてきた。複式簿記はお手の物だが正確な仕訳と決算事務はさすがに無理なので、税理士さんには決算前後だけ手伝ってもらうが、その他は自分でやるのが基本。

英語の契約書も大昔相当扱ったことはあったので、NDAは勿論のこと業務委託契約的なものも自分で精査して、対等条件に修正依頼することもあった。大きな会社は普通に自分達に有利で当然という態度でくるので。それは最初の会社で経験済み。おかしなことを言ってくる会社との付き合いは殆どなかったけど、最後の砦は契約書なので、そこに一切の妥協はなし。事業に困っていると、妥協してしまうようなこともあり得たかもしれないが、幸いそういう状態になることは無かったのでよかった。難解な契約の案件があったとしても、中高大の同期に弁護士は何人も居たので、別に心配はしていなかった。いざというときに身近に知人がいるのは心強い。

さて無名の新人が一人でやっていくには、どうしたらいいだろう。そう、まずは圧倒的な「give」からだという話は、自分史(ネットレイティングス時代)のところで書いた通りだ。初期に取り組んだ殆どお金にならない活動が後に芋づる式に繋がっていくことになる。特に執筆系は人気作家でもなければ、掛けた時間に換算すれば大赤字なんだけど、自分の糧になると思えたものは、誘われたら断らない。そういう活動によって、ジワジワと信用が加速度を付けて蓄積していったと思う。下記には公けに取り組んだことの一部を列挙してみた(開始時期と内容)。

2007年6月:ブログ開始(継続中)
2007年3学期:デジハリ大学院で客員教授(2011年後期まで)
2008年2月:Web担当者Forum連載開始(2017年12月まで)
2008年8月:「ネット視聴率白書 2008-2009」初の単著発行
2008年10月:教育講座「アクセス解析ゼミナール」開始(2019年11月まで
2009年6月:アクセス解析イニシアチブ(当時)設立協力と活動本格化
2009年7月:「Webアナリスト養成講座」初の翻訳本発行(監修及び翻訳)
2010年7月:無料メルマガ(週刊IFWA)発行(2013年2月まで)
2011年4月:「PROFESSIONAL アクセス解析」2冊目の単著発行
2011年8月:ウェブサイト「GAフォーラム」立上げ(2021年4月まで
2012年4月:無料メルマガ(週刊GAフォーラム)発行(2022年12月まで)
2012年9月:eラーニング事業開始(2013年2月まで)
2013年7月:教育講座「Google アナリティクス ゼミナール」開始(2020年2月まで
など

独立当初の頃はアクセス解析の仕組みや分析手法といったところの記事連載から始めて、それらを本にしたり教育講座にまとめるという一連の流れでアウトプットを効率よく再利用していった。Moodleというオープンソースのeラーニングプラットフォームを利用してeラーニングサイトを立ち上げたりもしたが、まだ流行り始まる前だったか、少し時期尚早だったかもしれないが、様々なことを試してみた。どちらかというと、実際のサイトのアクセス解析の初期設定や分析業務よりも、普及/布教/教育活動の方に自然と重きが傾いていった。

上記列挙の中にもあるが、業界団体 a2i(現アナリティクス アソシエーション、旧アクセス解析イニシアチブ)の設立に関わらせてもらい、その中で業界の認知を広めて価値を高めるための活動を自由に展開させてもらった。その中でやはり自分の教育講座なども展開させていくようにした。さすがに10年近くも同じような活動をしているとマンネリになるし、自分の中ではすでにやり切った思いが強かったので、2018年には運営から完全に退かせてもらった。a2iでは各種分科会活動と月例セミナーの企画を中心にやっていたが、多数の講演者の方と知り合う事にもなったのは財産になった。

そしてそろそろGoogle アナリティクスというGoogleのアクセス解析ツールにも飽きが来ていたのと、たまたま会社の登記の変更をしなければいけないことがあったので、事業を継続して別のことをやってみるのもどうだろうと思って、2019年の夏には定款(会社の目的)に教育と音楽を追加した。教育は仕事として、音楽は半ば趣味として登録しておけば、一生自分の興味のある範囲で会社を存続させることは可能だろうという適当な考えだった。

教育に関しては、初等教育が面白そうだと、いろいろな場所に行って授業などを見学させてもらったのだが、自分がそうだったように一人一人みんな個性が違うのに、画一的な教育をするのは限界があるし、かといって個々人に対応して個別対応する教育も難しい。これはとても生半可な気持ちで出来るものではないと気が付き、自分ができることではないと確信するに至った。学校の先生初め、教育者の方々に改めて感謝と尊敬しかない。ということで、大学の同期が運営しているスクールへの金銭的な支援する程度にとどまった。

そして後付けで考えただけだがw、そろそろ仕事も潮時かなと感じるに至った他の理由を無理やりつけるとすれば、主に二つのことがきっかけになっているだろう。一つ目はご多分に漏れず新型コロナによって2020年から活動が急にし辛くなったことが挙げられる。年に数回行っていた4種類のゼミナールという高額な教育講座は、座学で集合教育する形式だったのだが、バタバタと中止を余儀なくされてしまった。まあ最近は普通になった配信設備なども購入して準備はしたのだが、どうもしっくりこない。

もう一つは事業の根幹として扱ってきたツールである「Google アナリティクス」が互換性のない完全に新しいバージョンへ移行することになり、随分変わった形にこれからなっていくのも決定した。まあ、これに追随にしてビジネスを継続していくのは可能なんだけど、また同じようなことをやって、自分の人生が豊かになるんだろうか?みたいな根源的な疑問すら湧き上がってくるようになってきた、というのが正直なところだ。そうなるとあっさりしたもので、2020年には教育講座のコンテンツをPDFで販売して、全部吐き出して終わりにしてしまった。その後も、新規営業はせず自然減に任せていた。

その間、引き籠りで勉強その他やっていたけど、別に仕事がなくても人と接することが無くても特にメンタルがやられることもなく、会社という器を残していても仕方ないので、不要になったものはどんどん片付けてしまおうということで、今に至るということだ。最後まで人と群れることもなく、一人ぼっちでもやることを探して、やるべきことは一生懸命に取り組んだ方だと思う。

飽きっぽいところがあるので、独立以前には、ダレていた時期に迷惑を掛けた方もいたが、仕事人生の期間を通せば自分ではそれなりに自己満足できるアウトプットはしたんじゃないかと思うので、終わることに特別な感情もない。もともと夢も野望も物欲もない人間で、当然大きな何かを成すことはなかったと思うが、いい経験をさせて貰った。繋がりのあった方々には感謝しかない

自己分析するに、人と群れないように恐らく自分は承認欲求は特にない。老兵は消え去るのみ自分は自己満足できれば幸せな人間だと思う。繰り返すが従来から物欲や食には関心は薄いし、今は学生時代や現役時代によくやったスポーツも旅行もアルコールも投資/投機にも全く興味はないが、他にやりたい勉強、見聞きしたいことは多数あるので、それらに時間を割き自己満人生を満喫させて頂くことにする。

プライベートのことは、この独立時代の期間が長いので現在の状況と途中のトピックスを幾つか記述するにとどめる。子供たちも自分と同じで変わった苗字が原因でイジメられる/からかわれるようなこともなかったらしい。今は全員独立し、結婚し子供がいるものも。特段いい父親だったとは思えないが、幸いなことに娘からは不潔呼ばわりされることもなく、反抗期も見受けられなかった。息子は表立って非行に走ることもなく、なんとか真っ当に生きているようだ。

彼らに対しては、口うるさく何かを言うことはしなかった。自分史(NEC時代)でも書いたたが、自分がされて嫌なことは人にはしない主義なので。人間で安易にABテストはできないが、子供の養育については未だにどうしたらもっと良かったのか見当もつかない。どの親御さんでもそうなのではないか?

ペットは大人になってから通算で猫2匹、犬3匹(生まれたて除く)、全部虹の橋を渡った。犬猫どちらも面白い生き物だったが、今後飼うことはあるまい。自治会活動は20軒程度を束ねる「組」を20くらい束ねる「支部」の長を1年やらせてもらったが、超面倒で自治会活動はもうお腹いっぱい、行事ごとは最小限でいい

2011年の震災以降、すぐに太陽光発電を開始し、かなり自給できている。計画停電時の東京都優遇主義、突然の大地震時の東京都以外の強制停電など、東京電力はもはや信頼していないので自衛するしかない。蓄電が安くなってきたら必須だろう。ガスは都市ガスに乗り換えてもいいのだが、プロパンガスから変えていない。都市ガスも大災害発生時に復旧遅れは必至だろうと予想しているためだ。

緑内障の他には、コレスレロール値を下げる薬を服用している程度でそこそこ健康だ。とにかくまず健康であることが大切だ。生活は質素そのもので、金の掛からない趣味だけ。年金を貰えるのは少し先だが、後は何とかなるだろう。

最後に今回まとめて記録に残したことは結構意味があったと感じた。マニュアル化の話を自分史(日経BP時代)で書いたように、言語化することでいろいろと整理することもできたからだ。引退後の自分史を書く日がいずれ来るかもしれない。それでは、その日まで。今後SNSの活動も減ると思うが、まとまった話はこのブログで、ちょっとしたボヤキはTwitter辺りでしていることと思う。安否確認は、その辺りでどうぞw

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自分史(引退後)はいつになるやらw

自分史(ネットレイティングス時代)2000年~2006年

続いて、仕事時代の第三ステージに入っていく。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・ネットレイティングス時代
21世紀の始まりとともに始まるネットレイティングス時代だ。振り返るとITバブル崩壊(2001年)直前のITバブルの熱狂期に、自分もベンチャーでIPO長者だなんていう下心が全くなかった訳ではない。日経BPよりも約2割年収は落ちたけど、あわよくばIPOで戻ってくるストックオプションの利益があるかもとは思っていたが、その時点で実現していないでぬか喜びすることもなかった。

ネットレイティングスは米NetRatingsと日本の複数の出資者の合弁で1999年半ばに設立され、米NetRatingsがサービス開始しているネット視聴率サービスを日本でも展開しようということで、準備を開始していた。その真っ最中の2000年1月頭から参加して、データ収集後の集計に関わるサイト分類などを担当し、2000年半ばで日本でもサービス開始に漕ぎつける多少の助けにはなっただろう。入った2000年頭には、赤坂の小さいビルの2階で社員が10人超くらいだった。

そして人は増えていき、近くのビルの広いフロアに移る。データのリリースは週次と月次で行うのだが、それも軌道に乗り始めたところで、自分は新規事業開発を仰せつかるのだが、本業も立ち上げたばかりでその次を考えるのはなかなか難しくて成果は上げられなかった。まっさらの0から仕事を作るのは苦手だと思ったが、自分で何かネタを探し当てたら、その0を1にしていくのは目標が明確なので好きだったかもしれない。

そうこうしているうちにデータの信頼性に問題が生じることがあったりして、品質管理チームリーダーを仰せつかり、出荷データの信頼性向上に寄与する仕事に。そして次のバージョンの製品にするためのサイト分類の超労働集約作業とかもやった。こちらも何をしなければいけないのかは明白だし、粘り強く地道な作業をコツコツできる俺の本領発揮という時もあった

目まぐるしく時は流れ人も増えたので、時期は定かではないがやがて、出資しているトランスコスモスの渋谷のビルに移った。その後だと思うのだが、右目のコンタクトレンズがやたら曇るなあという不思議な現象に悩まされていたのだが、実は緑内障が進行していて視野欠損が始まっていて見づらくなっていたということがわかり、残りの半生は少なくとも右目は靄がかかったような状態が続くということに。まあ、そんな中、トランスコスモスのビルは高くて非常階段も素晴らしかったので、また昼休みの階段上り下りのトレーニングをやっていたこともあった。昼はもちろん自作の弁当持参だ。

ネットレイティングス在籍中に最大で40人くらいは社員(含む派遣)はいた気がするが、全員知っているので具体的な話はしないでおくが、一言で言えば、みんな個性的だったなあという印象。まあ、同じ釜の飯じゃあないけど、結構ツライことも多く共有したから嫌でも多少深い付き合いになったからだろうなとも思う。ある程度相手を深く知らないと仕事もスムーズに運ばないのも事実だ。ただ、飲みに誘われれば行くが、公私ともにべったり仲良くなった人はここでも特にいなかった。まあ、独立後も暫く仕事で付き合いが長く続いていた人物はいたが。

一方で、もう組織の中で生きていくのはいい加減面倒だなあというマグマが溜まって最終形の独立に突き進むための後押しになったかもしれない。いわゆる30人の壁とか50人の壁とか、そういうところで一皮むけていく段階も経験した訳だ。

在籍中、米本社の方でアクセス解析の会社「Red Sheriff」を買収した。日本にもその子会社があったので、ネットレイティングスに取り込まれる。これで他社比較ができるインターネット視聴率と、自社サイトの詳細データはアクセス解析ツールで、という両輪が揃った感じになった。ただRed Sheriffのツールはそれほど高度なものではなかったので、製品としてはパッとしない感じだった。ただインターネット視聴率の方も大体わかった積りにはなったので、すぐにこちらのアクセス解析の方を担当させてもらい、その後のGoogle アナリティクスまみれになっていく準備段階に入る。

平行して、前述した通り、組織の中で生きていくのは終わりにしたいということで、どうしたものかなと考えてはいたかも。いきなり独立しても何か見込みがある訳でもなかったし、現実的には退職した会社から仕事を貰う的なリクルート方式が可能性としては高いかなあ、など当時の会長とも相談させて頂き、詳細は書かないが円満退社して独立することができた。

会長には入る時も出るときも大変お世話になった。恩は全く返せそうにない経営者として成功者なのかはわからないがw、人として尊敬できる人物だった。「取る(take)」から入る人が殆どだと思うが、彼は「与える(give)」から入る手法の人。若い人には圧倒的に「give」を先行させよと、自分は最近説くが、自分の独立後の経験もそうだが、やり方を間違わなければ、何倍にもなって自分に返ってくる。急がば回れの精神が大事ってことは染みついた。繰り返すが、個人的にはこの恩に対しては半分も返せてないのだけどねw

ネットレイティングスでは6年半という期間の割には、様々なことがあったが、まあ前職末期の20世紀末のインターネット視聴率のゼロからの立ち上げからの、21世紀のアクセス解析との出会いに跨る10年は特にエキサイティングだった

プライベートでは、中古で乗り換えた一戸建てが築30年に迫り、2階の重さで1階の一部の引き戸が動かしにくくなるなどガタがきていたので、新築に建替えたのがこの時期だった。2カ月くらいだったか、近くの廃アパートになる1階の2軒分をぶち抜いて仮住まいさせてもらった。一番上の子が中学生に、一番下はまだ小学生以前と上から下までの年齢幅が7歳もあると様々な行事ごとなどでバタバタしていたか。

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自分史(日経BP時代)1989年~1999年

続いて、仕事時代の第二ステージに入っていく。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・日経BP時代
NECに入ってすぐに、まあ5年でいいかなと思ったという話は
自分史(NEC時代)でした通りで、4年目くらいからは次はどこにしようかなというのを薄々気にしながら情報を集めていた感じだったかもしれない。といっても、35年くらい前の話だから、新聞の求人広告を中心に見ていたくらいだったと思う。ひたすら電話営業して数を稼ぐ求人みたいなのはよく見かけたが、そりゃ営業成績が出せれば高給取れる可能性はあるけど、自分には絶対に無理だなあと感じたり、拙速に行動に移すことはなかった

で、結局新聞広告に出ていた日経BP社の調査部員募集といった広告に目を引かれたという訳だ。日経新聞の子会社だし、待遇(給与)も日経並みでかなり良さそう。調査部って何をするところなのかはよくわからなかったし、当時気軽に転職できるような時代でもなかったけど、まあ行動してみるかという感じで応募。詳細は既に忘却の彼方だが、恐らく所属することになるであろう部門長の面接を受け、そこを通過したら役員面接という具合に進んだのだと思う。普通に内定を頂き、いつから来れますかといった感じになるが、それなりの時間は掛けてNECを円満退社して、初の転職となった。

調査部とはどういう仕事をするのかピンとこなかったが、いわゆる「メディアリサーチ」をする部署だった。メディアリサーチとは、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・インターネットなどのメディアについて、その特性・効果・影響・利用法などを探るための調査のことだ。テレビで言うと分かりやすいのが、視聴率調査になるだろうか。どういう属性の人がどの番組をよく見るのかを調べることで、番組制作の役に立てたり、CM枠を売るための元データにする訳だ。出版社では独立したメディアリサーチ部署が社内にあることは今でも少ないと思うのだが、日経BPは違った。

この辺りについては、日経BP社自体について少し話をした方がいいだろう。自分が入社する前年まで、社名は日経マグロウヒル社だった、1969年に日本経済新聞社と米国マグロウヒル社との合弁企業として設立。マグロウヒル社はビジネス誌の「ビジネス・ウィーク」やパソコン誌「BYTE」などを発行する世界有数の出版社で、そのノウハウを吸収するために合弁企業を作ったのだろう。そして1988年に日本経済新聞の100%子会社になり「日経BP社」となった。BPとはBusiness Publication の略でビジネス出版という意味だ。調査部はそんな米国流の「データによって広告を売る、誌面を作る」ために参考になる資料作りをする専門の部門ということだ。

無料で大量に雑誌をエグゼクティブにばら撒く米国出版事情なども知ることになったし、雑誌広告には定価があってないようなものであったり、販売部数なんかも年間で一番売れた時の印刷部数を大本営発表するなど、凡そ不正確なデータが氾濫しているものだと業界内事情も知ることになった。そんな中でも日経BPの雑誌は基本的に当時定期購読誌しかなく、読者全員の完全なリストがあったので読者アンケートもきちんとできたし、購読者の数も正確に把握できたので、精度の高いデータを基に定価での広告販売、雑誌の内容への評価の把握を誌面作りに反映していくといった面では抜きんでていたのではないだろうか。そういった諸々の調査データの収集と関係部門への提供を仕事としていた。

仕事は全く新しく新鮮で楽しかった。調査部は「長」と呼ばれる部課長クラス的な人を筆頭にして、その配下に担当者レベルの10人超の社員とアシスタントの臨時職員で構成されている。みんな若くて、担当者レベルだと自分が上から2-3番目にくるくらいな若さで驚いた。最初は自分より年齢が下の人に対して「君」とよぶのか「さん」と呼ぶのか迷ったりしたが、基本的にはこの辺りから誰に対しても「さん」と呼ぶのが良さそうだと思っていたかもしれない。

入社直後は、どうせこれからも人は増えそうだったので、定型業務はマニュアル化しておいたらどうだと提案して、マニュアル整備をすることになったが、みんな結構嫌がったのは印象深かった。若いのに経験と勘が大事みたいな考えの部員が多いんだなあと。自分は逆に多くの仕事は言語化してマニュアル化しておくべきという考え。言語化することで、自分の理解のあやふやな部分も炙り出されて、いい訓練になるし、何かあってもすぐに別の人が引き継げるので、いいことづくめのはず。嫌がっていた人達は、多分単に面倒なだけだったんだろうとは思うが。。。

調査部は共通部門の位置づけになるのだが、一方で各部員は担当する雑誌が割り振られているので、雑誌で縦割りになっている組織の中にも半分入っている構造で、雑誌ごとに開催される定例ミーティングにも唯一担当者レベルなのに出席するというユニークなポジションだった。これはNECの時もそうだったが、かなり上の人達が会議をする中にいきなり入って話を聞いているだけでも勉強になったことは間違いない。

そしてやがて、調査部も担当雑誌のグループ別に分裂し、年次が比較的上だった自分は、技術系雑誌を束ねた一つの「局」の調査課長みたいな位置づけになってしまう。ここから苦難の道が訪れる。30歳少しの自分が、一応予算もついた小さい部門のトップになって、10人弱の人の管理と自分の今までの仕事もやらなければならない。しかも、図書館的な機能も統合されたので、アシスタントの女性は4名もいるという状態。詳しいことは言えないが、毎日ひやひやする想いで出社していた時期もあった。この時期を経て、人のマネジメントはやりたくはないという意識が強化されたような気がする。

ここで仕事内容からは少し離れて昼休み事情や交友関係などを。入社してから暫くは昼休みは調査部の同僚と三々五々グループに分かれて、ふらっと外へ出てどこで食おうかと言いながら行列にならんで店に入って、雑談しながら飯を食うというルーティーンに参加するも、この怠惰な時間に耐えられず、NEC時代のように運動することにした。もちろん体育館もシャワーもない。トイレで着替え、非常階段の上り下りを10往復した後、倒立(逆立ち)1分を3セットとか器械体操系の基礎トレーニングをやるだけだ。そして濡れタオルで汗を拭き、執務室へ戻り自作の弁当を食べるという日常にした。

入社した頃は全社の社員数が増加の一途を辿っていたので、頻繁に賃貸のオフィスを引越ししたものだが、どのビルにも非常階段があって実は殆ど人通りがないので、知り合いに見つかることもなく意外と心地よく運動できるのだ。あとは、早朝出勤を習慣にしていた時期もあり、その時は半蔵門線永田町の長いエスカレータには乗らず、その横にある100段の階段を1段抜きで駆け上がることもやっていた。まあ、人があまりやらないことを普通にやるので、全てを知っている人はいなかったと思うけど、ちょっと変わった人認定はされていたと思う。まあ仕事以外のことなら人の評判は意に介さなかった。

仕事の話に戻るが、調査部も縦割り分割されて暫くのちに、再び共通部門の「調査部」に統合され、人のマネジメントもしなくてよくなり、1部員に戻ることになったが、やはり5年もやっていると、段々分かってきた積りになってきたのか飽きてきたことは間違いない。この頃だろうか、この会社は部署異動がシステマチックに行われることがないことにようやく気が付いた。年に2度くらい昇進昇格や異動の時期があるのだが、異動に関して言えば、出す側と受ける側の部門長双方の意見が一致しない限り成立しないという仕組みなのだ。人事部がこの人はこういうコースで成長すべしみたいな異動を提案したり介入をすることはやらない。自分のように飽きやすい人間は次に進みたいところに媚びを売るなりして、周到に準備をしておかなければ滅多なことでは動けないのだ、と気が付くのに時間が掛かってしまった。

その頃からだろうか、調査部在籍後期にはやる気が減退し、新たに着任した部長にも厳しくあたる不良社員化していく感じだったと思う。またいろんな人事異動などを見ているにつけ、トップは日経本社からの落下傘部隊だし、バブル崩壊でバブル雑誌の休刊が続いて部門が減ると、今度は人余りの問題になる。会社の人口ピラミッドを見ると結構ヤバイことも分かった。会社の成長は停滞し、上のポストは渋滞、10年後の中高年ばかりになる会社の未来が目に見え、遅まきながら他部署へ異動希望を毎年のように出して、ようやく別の新規事業発足時に拾ってもらえたのは幸いだった。

そこはいわゆる編集職場。その後も別の新規事業の編集部に異動する。分かりやすく例えるとガートナーとかIDCなどのいわゆるハイテク調査会社みたいな事業を模索するような部署だった。一応紙媒体も月次で届けるのだが、IDとパスワードでサイトに入って、そこでコンテンツを見る権利を与えるようなサービスを始めた。実はNECに居たときに、ハイテク調査会社のデータを買っていたこともあり、一種の憧れみたいなものがあったので、まさにぴったりな感じで嬉しかったものだ。自分の担当はインターネット系に関わるデータ収集と分析予測みたいなことになる。

ここで、ある人との出会いが決定的な分岐点になる。自分の部署企画のセミナーで登壇した時のことだが、講演終了後にNTTの研究所の人が声を掛けてきたのだ。簡単に言うと、インターネット視聴率データ収集プログラムを開発した部署の中の人か近しい人で、それに興味はないかと聞いてきたので、早速上司と研究所詣をし、インターネット視聴率を事業化しようという話がトントン拍子に進んだ。既に米国でも日本でもインターネット視聴率サービスの走りみたいな事業がそこここで湧いていて、早速米国の2社に会いに行ったりと世界のスタンダード争いの始まりはこういう感じなのかと体感できた。

実際にパイロットテスト的に、何人規模だったか覚えてないが、協力してくれるモニターを募集してデータを収集し、そこから様々な集計をしてレポートを作ったりした。その後、正式に事業化しようということで、別の独立した専門部署を作るように経営会議を通して、インターネット視聴率センター」の長になる。理由は分かる人には想像できると思うけど、この時期は「社長失格」で有名なハイパーネットの社長に会いに行ったこともあり、仕事で後日また繋がった社員の人もいた。また視聴率データを買うのはまずは広告代理店さんなので、その辺りの関係先にはよく訪ねて行ったりしたものなので、それまで付き合いのない人達との繋がりが一気に拡がった時期でもあった。

アシスタントが1人つき、社員も1人増えという感じではあったが、一方で競合の動きも激しく、始めたはいいものの先行きは明るいものとは言えなかった。日本で5社が争うような状況だった。この辺りの詳細は大幅に割愛するが、いろいろ紆余曲折があり結果的に自分は米国由来のインターネット視聴率サービスを利用したサービスを開始したネットレイティングス社に2000年1月にジョインすることになった。日経BPの関係者の方々には大変申し訳ありませんでしたという以外の言葉はない。なおもう絶版になっていると思うが、自著の「インターネット視聴率白書」は日米のインターネット視聴率黎明期の詳しいことが記載されている。

日経BP社に在籍した10年6カ月のうち、自分の気が乗らない時期に鉢合わせした人には大変申し訳なかったと思うが、メディアに居たこの時期は、調査・統計はもちろんのこと、広告/広報/取材/執筆/編集/校正/セミナー登壇/出版・メディア全般/印刷/色...といった様々な分野の事柄について理解を深める時代になった。細かいところでいうと、間違いやすい広告主名、間違いやすい用字用語なんかも、その後の文章の校正に大いに役立っている

プライベートでは子供も生まれ、幼稚園時代は送り迎え、小学校時代は多数の行事のほか、公園遊びに連れて行ったり、日経の健保の保養所に連れて行ったり、こちらも目まぐるしかった。記録を取らない生き方をしていると、こういう時に正確に一つ一つ振り返れないのは残念でもある。住まいは、田園都市線沿線駅からギリ徒歩圏内の中古の一戸建てに買い替え、さらにすぐ近くの中古の一戸建てにと、狭くなったら広い所へとどんどん住み替えていった。バブルがはじけても住宅価格はまあ高めが維持されていた印象だけど、少しずつ広くしていったので、結果的にはいきなり買うのは無理な家に最後には辿り着いた感じだろうか。

自分史(~小学生時代)こちら
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自分史(NEC時代)1983年~1989年

学生時代までの自分に続いて、ここからは仕事時代に入っていく。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・NEC時代
最初の就職先はNECだ。ざっくり言って当時従業員数は数万人、新入社員は1,000人くらいな規模感か。記憶は薄いが1カ月程度の一括
集合型の研修があり、その間に配属先が通知されたと思う。研修は、会社のこと、商品のこと、業界のこと、経理の基本など、仕事をこれから行うにあたっての基礎的なこと、営業同行で顧客訪問など、様々な体験をさせてもらった。研修期間は自宅から通ったと思う。すぐに友達を作れる人達は、研修時代に早くも毎日のように夜は飲み歩いていたらしいが、自分は帰宅直行組だった。

配属先は府中事業所のコンピュータ系の事業部になった。ワープロからオフコンまでのコンピュータ製品の開発から生産までを担当する事業部。大卒同期入社組は10名程度だっただろうか。自宅から通えないことはなかったが、会社の敷地内にある寮に入ることにした。4畳半に2人詰め込むという感じで酷いものだったが、夜遅くまでの残業が日常的だったし、夕食風呂ありでタダみたいな寮費であれば入るしかあるまい。通勤なしで寝るだけの場所というのもまあいい経験だった。自分で洗濯くらいやれば済むので楽だった。土日は実家に帰れるし、必要なものはその都度家から持ってくればいいという感じだった。

仕事し始めてすぐに分かったことは、給料が安いのでみんなダラダラと生活残業が常態化しているのと、この会社の規模感だと主任/課長/部内部長/事業部長/何段階もの役員とステップを上がって社長になれたとしても70歳、果たしてそれでいいのかなあという疑問は3カ月と掛からなかったか。それでもまあ大企業に折角入社したし、特段ブラックな訳でもないから、どんなところなのか最低でも5年は勤めてみないとわからないだろうと思った(今の時代のスピード感だと2年程度でいいかもしれないが)。5年目で同じ事業部内の別の部に異動になり、違う仕事も経験したのだが、先は長すぎるなあという考えは変わらなかったので、転職活動をして6年超務めたNECから次の企業へと移った。

NECでは最初の5年は、事業部の中の経理のような仕事で、「計画部」の中で予算立案と実績管理を行う「予算グループ」に所属した。月次と半期、1年といった周期的な業務があり、その定型業務を繰り返していく。もちろん急激な円高対策とか半導体高騰、報復関税とか様々な出来事が起きるので、それに対して金額的なインパクトの予想だとか非定型業務も入ってくる。しかしまあ、定型業務に関して言えば、2度経験すれば何をしているのかは分かる(もとい、分かった積りにはなる)ので、それを5年もやっているとマンネリになるという自分の飽きっぽい性格はわかった

もちろん他にも様々な経験をさせてもらった。普段は複数の先輩に直接指導してもらい、ときには役員レベルの会議資料を作る過程で事業部長へその資料の説明を事前にする会議があって、新人クラスの自分もそういう場へ参加させてもらって、トップの人達の考え方に触れさせてもらうことも多かった。その当時の5年で事業部長は3人くらい変わっているし、部長クラスや課長クラスの人とも頻繁に話をする機会も多く、大企業の様々な人達と接する機会があったのは、良い経験になった。一方、新人を指導するみたいな立場も経験させてもらったが、上手にできたとは思えなかった

この時期は仕事とは別に個人で簿記の勉強をした。体系的に原価計算とか複式簿記の書き方、P/LやB/Sみたいな基礎は徹底的にやったので、お金周りのことについての知識は現在に至るまで自信がある。あと、仕事を離れて、投機的なことに手を出してしまい、最終的にはプラスに持っていったが、途中大損したりで、仕事も手につかないこともあり、投機も投資もまっぴらという原点はここにある。まあ、確かにメーカーは給料は安いが、もっと簡単に金儲けしようなどという邪なことを考えても、いいことはないということだ。

6年目に次の異動先になったのは何と技術系の部署(文系採用なのに)。まあ自分は大学で理系から文系へ転向したという経歴なので、設計とかゴリゴリな理系仕事でなければできると思われたのだろう。実際、その部署は今でいうとプロダクトマーケティング的な部署で、技術が分かる人の立場で商品の概要設計と出荷スケジュール、販売想定価格の決定など、商品の採算はもとよりその商品の開発から生産までの全体を俯瞰する部門。自分が配属されたのは、海外向けパソコンを扱う課。この課は4-5人しか部員がいなかったので、語での朝礼当番が毎週1度は回ってきて、仕事以外にも負荷が高いだった。英語に苦手意識は特になかったが、得意でもなかったのでしんどかったことは間違いない。

実はこの英語漬けになる部門に異動になる伏線があった。それは「予算グループ」に居た最後の頃に、1カ月ほど米子会社に出張を命じられて行ったことがあったので、海外赴任の布石かなという雰囲気はあったのだ。恐らく無関係だったとは思えないが、その辺りは上の人達に確認したことはないので真偽のほどは不明だ。出張したのは冬のボストンで、会社に近いホテルに泊ったのだがレンタカーを借りて通った。昼は現地の日本人社員に食事に誘ってもらって過ごした。自分の不注意から交通事故を起こしてしまったり、ボストン美術館へ一人で行ったり、いろいろなことがあったが、何があっても動じない度胸がついたし、いざという時の人の優しさに触れたりと、貴重な経験をさせて貰えたと思う。

さて海外向けパソコンの話に戻るが、開発に当たっては当然いろいろなトラブルがあって、ハード/ソフトすべてが100%問題ない状態で商品を作って売りだすことは難しい。そんないろんなバグがあるなかでスケジュール通りに出荷するようにもっていく課長の仕事の進め方には感銘を受けた。まあ、聞いてみると当たり前の基準があって、それで判断しているのだが、なるほどと合点がいう方法論だった。きちんと言語化して再現可能な方法論を持って仕事をすることの重要性を学べた

ところで府中事業所には体育館も陸上のトラックもあった。部活動も盛んで運動部も文化部もいろいろあった。そして器械体操部があったで、配属されて早々に入部させてもらった。体育館の一角に各種器具もあったので、昼休みと終業後に活動していた。部員は10数名程度だが、実際に活動しているのは数名といった感じ。悲しいことに、先輩部員が昼の練習中に頭から落下して頚椎損傷で救急車を呼んで同乗するような事故もあった。大学でも先輩が2人の頚椎損傷で救急車という現場に立ち会っているが、怪我するときに行っていた動作パターンは同じで、どういう場合に危険度が高まるのかを知っておくことが大事だ。失敗は再現性があるということ、仕事でもそうなんだけど

現役で活動していない体操部のOBは、府中市の体操協会の理事をやっていたりして、府中市には体操部のある中学などもあり、府中市は比較的体操が盛んな場所だった。結局はキーになる人が動くから物事が始まるということだ。多摩川の近くに府中市総合体育館があり、そこで市の体操の大会を開催していた。そこで選手として試合に出たり、中学生の試合では審判をしたり、休みの日に府中市の体育館で体操教室を開催して教える活動もした。トランポリンもあったので、体操教室ではよくそれで遊ばせた。ここでも「教える」活動を少し経験したものだが、いろんな子がいるので、それぞれにあった教え方をするのはなかなか難しいものだった。

また、体操はこの頃に正式な審判資格も取った。審判資格は何種類かあって、その一番下のクラスだったが、一瞬で終ってしまう演技を正確に見取って、なるべく客観的に評価し瞬時に点数化することは難しかった。東京都の高校生の公式大会で審判をしたことがあるが、高校生でも自分より遥かに高度な技を行う選手の採点を、自分が採点する滑稽さというか酷さは誰もが感じることだと思うが、他の採点競技であるフィギュアスケートしかりで、採点競技の審判は本当に難しいものだと思う。NEC時代に部下の評価をした記憶はないが、社会人になって人の人事評価をすることの難しさに通じるものがある。

会社での活動に戻るが、昼休みは1時間あったが、そのうち体育館で器械体操をするのに30分、着替えやシャワーを浴びるのに15分、後の15分で体育館に隣接する社員食堂で昼飯をかき込むという毎日だったので、昼飯は当然いつも一人。先輩や同僚と一緒に昼飯というありがちな光景とは無縁だった。また夏の時期だけ、昼休みは水泳部員になってプールで25mダッシュを繰り返す練習に参加した。そう、体育館と陸上トラックの間にプールもあったのだ。陸上部なんかもあったし、昼には事業場の周囲を多数の人が走っていたものだ。

本社採用の社員以外にも、府中事業所で採用している中卒や高卒、短大卒などの社員も居たし、大企業には障害者の雇用が義務付けられているので、ろうあ者の方も多数働いており、その周りには手話ができる社員も大勢いたものだ。それ以外にも、関係会社や協力会社、子会社など様々な会社の人が事業所内に同居あるいは、各部署の中の一員として仕事をしていた。

話は変わるが、丁度自分が入社したころから、男女雇用機会均等法も施行されたので、女性は結婚したら主婦になるべきみたいな固定観念(親の世代はまさにそんな感じ)が崩れ始めた時期でもあった。自分はこの時期に結婚したが、基本的にはずっと共働きだ。そういう意味では、自分は昔ながらの風習や常識みたいなのには、一切拘りはないのは昔から変わっていない

NEC時代の交友関係だが、寮生活しながらも土日は実家に帰ることも多く、寮内に親しい友人を作ることもせず、上司や同僚後輩と特に親しい関係を築こうともしなかった。まあ、社員旅行は毎年ある部だったし、事業部全体での飲み会は年に1度あったし、誘われたら部単位、課単位の飲み会(からのカラオケとか)にも参加した。健保の保養所に部内の有志での旅行、課長の家に部下が皆で遊びに行ったこと、先輩とゴルフに行ったこと、同期でテニス行ったこともある。まあ誘われたら断らないくらいな関係で心地よかったかもしれない。べったりしないまでも家族的な雰囲気は悪くはないものだった。また府中事業所の別の事業部に配属された中高時代の同期が結構近い場所に座っていたので、たまに話しかけに行ったし、スキーも二人で行った。

仕事を始めたこの時期は、社会人としての心構えみたいなものを徹底的に吸収して、社会人としての基盤を構築したという意味で重要な時期だったと言えるだろう。一方、NEC時代に、あの人のようになりたいという「キャリアを形成する上でお手本となる人物(ロールモデル)」とも出会わなかったし、その後も含めて、大きな影響を受けた人物は出てこなかった

出会いが自分の転換点になった人物は複数人いるが、それはここで言う「(人として)影響を受けた」とは異なる表現が相応しいだろう。人と自分は能力も性格も違うし、時代背景などの外部環境も違う。そんな中で、特定のある人と同じようなキャリアを歩んでいくのは無理だし、大勢の人から多くの学びを得るべきだろう。自分の性格や能力に合った目標は自分で考え、常に軌道修正し行動すべしという考え方は今でも変わっていない(自分史(中高時代)に書いた「自ら調べ自ら考える」に帰着する)。いずれにしても6年3カ月の間にお会いした大勢の方々に感謝したい。

少し話は変わるが、NEC特有の経験から、事業する上で考えたことがあるので、それに触れておく。

NECは大企業で事業部制だったため、基本的に会社は各事業部が独立して動く組織の集合体として捉えていた。大企業になると、よく総合力という表現を使うと思うが、相乗効果という話とは全く別に捉えておいた方がよい。どういうことかというと、事業部制で縦割りということは、実際の所では掛け合わせての相乗効果があるということはあまりなくて、単なる足し算でしかないことが殆どだと中に居て感じた。しかしだからといって、昨今は半導体部門と家電部門と通信部門と...みたいに別会社化して分けて次々に窮地に陥るのを目にするにつけ、それは違うんだよなと思う。

掛け算の相乗効果はなくても、足し算ができれば、どこかが調子が悪くても別の好調な事業でカバーできて、会社全体が簡単に傾くことはない。縦割り組織が複数集まっているだけでも十分に存在意義があるのに、分けてしまうと単体でダメになったら、他所の同業と合併みたいなおかしなことが最近多すぎるような気がしている。どちらにしても、自分がいた時期は、コンピュータ系も通信系も半導体系も好調なバブル直前の素晴らしい時期にイケイケどんどんの追いつけ追い越せの元気のいい時代だった

もう一つ感じたことは、取引先の中にはNECよりも大きい超大企業も当然いたのだが、そこ向けのビジネスは大変厳しいもののようだった。隣の事業部がそういう事業で構造的な赤字体質だったが、だいたい超大企業のやり口は決まっていて、2-3社に競争入札させて、熾烈に競い合わせて原価率150%みたいなことになっていた。個人的には、そんな入札からはさっさと撤退すればいいのにと思っていたものだが、まあそんな簡単なものではないのだろう。

まさに下請けから完全に搾取する構造が出来上がっていて、超大企業の言いなりみたいな世界はダメだろうと思った。そういう経験もあって、独禁法とか公正取引委員会とか、公的で公正な厳しい監視の目と厳しい措置の実行などもガシガシやって欲しいと思っている。放っておけば、まず変わらないからだ。今でもいろんな業界でそういう習慣は残っているのではないだろうか。自分の利益のためには下請けイジメして当然といった雰囲気の企業は、トップがどんなに格好のいい話をしても尊敬できない会社のレッテルを僕は貼る

自分史(~小学生時代)で、図工の教師にビンタされた話をしたが、僕の場合は、すべて「ああ、自分はこういうことは他人にするまい」というネガティブリスト的に反面教師を増やしていった感じがする。だから、上に書いたけど、理想とする人物像(ロールモデル)に近づこうとするのではなく、こういうことをする人にはなるまいという多くの「してはいけない事」を自分から排除していくことで、自然と相対的によくなっていった気がしている。仕事の振る舞いでも、公衆での振る舞いでも同じ原則。そして自分と合わないなと思う人とは距離を置くことで心の平穏を保つ。逆に言えばそういうことをしているから、いろんな考えの人と集まって大きなことを成すことはできなかった、とも言える。

さて、ここではプライベートはあまり触れないことにしている積りだが、この時期に結婚し、府中事業所にも遠くない南武線沿いの川崎市多摩区の中古マンションを購入。共働き、まだバブル以前で3DKで2000万円足らず、薄給でも何とか手が届いてローンが組めた。まもなくして猫も同居といった暮らし。京王線の駅にも近かったので、都心へも出やすくいい場所だったと思う。今でもたまに通るが、駅前に少し商店街が集中している程度で大きく変わっていないかな。多摩川も近くに流れ、丘陵地帯も迫っていて自然が多く、比較的穏やかな時間が流れているいい所だった。

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自分史(大学時代)

自分史(中高時代)に続いて、こんどは大学時代について書いていく。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・大学時代
自分史(中高時代)で書いたとおり、大学は東大2類(
理2に入学した。東大は1-2年が教養課程と呼ばれ、理2だとそこの必修科目の他に文広く科目を選択して単位を取得していく。そして3-4年の専門課程に進むにあたって、自動的に進学できるところ(文1は法学部、文2は経済学部、理3は医学部へ進む)以外は、自分の行きたい学部学科を申告して、1-2年次の成績の上位の人間から定員を埋めていくという制度(進学振り分け)になっている。つまり自動的に進学できないところは、1-2年でもしっかり勉強して、行きたい学科に進めるように成績を上げる努力が必要ということだ。理2は、工学部を除いた理系と一部の文系に行くことが多い。

まずその教養課程1-2年の時期を振り返る。1-2年は駒場キャンパスで自宅から電車で通った。理系だと第二外国語の選択はドイツ語が主流だが、フランス語を選択した。1クラス60人くらいだったと思うが、クラスは同じ第二外国語を選択した理2と理3の人の混成で構成される。女子は理系の中では多めの10人弱、同じクラスに高校同期が2人もいたのは驚いた。手元に残っている4年間全体の成績表を見ると、1-2年の教養課程時代の細かい明細の記載はなく、優(80-100点)A/良(65-79点)B/可(50-64点)Cの成績別合計単位数くらいしか記載されていないが、教養課程の成績は7割程度が「良」といった感じ。東大で「優」が楽に取れる程の実力はなかったというところだろう。

そして入学して間もなく分かったのは、大学数学の抽象度の高さに愕然としたことだ。高校数学が少し得意くらいなレベルでは太刀打ちできない理系の専門課程に進んでもついていけないと判断した(実際はそんなことはなさそうだが)ので、教養課程の自分の平均点で行けそうなところを探して、文科系と理科系の中間みたいな「教養学部教養学科 科学史・科学哲学」に進んだ。1学年10人弱と小所帯で女子は二人、そのうちの一人は教養課程で同じクラスの女子だったのでびっくりした。3-4年の専門課程は普通本郷キャンパスにある学部に移動するのだが、自分の場合は専門課程も教養学部だったので、4年間駒場キャンパス通いだった。

3-4年は専門の科目は過半数が成績は「優」だったが、外国語は概ね「良」、卒論は指導教員にも付かなかったし、自己流でやったので「良」。実際やっていた勉強は専攻の「科学史・科学哲学」に拘らず、心理学とか、興味の湧く分野については本を読み漁っていた。今も関心分野は広く様々な学問分野の本を読んでいるが、この当時から変わっていない

交友関係だが、入学してすぐ、多分任意参加だったと思うけど、新入生歓迎旅行?みたいなものに参加したのは覚えている。泊りだったか日帰りだったか記憶にないが、そういう行事は確かに友達作りのきっかけになると思った。その後、同じクラスになった高校同期の二人と今更つるんでもなあ、新しい友人でも作りたいと思い、駒場キャンパスの敷地内にある駒場寮に住んでいるクラスメートの所に行ってみたり、いろいろとしてみたものの、まあ会話が弾むわけでもなく、中高までと同様に、特定の非常に親しい友人を持つに至らずといった感じになっていった。3-4年の専門課程でもそうだった。やはり一人が気楽で一番落ち着く性格は変わらない。空き時間の友は図書館だったかもしれないw

大学でしっかりやったと自慢できるものは勉強ではなく、体育会系の器械体操部で4年間活動したことだろう。体は柔らかい方だったので、最初のハードルは軽く乗り越えられた床運動以外に器具を使った種目が5つあり、これらも必須なのでこれらの上達には時間が掛かった。今まで全く使ったことのない筋肉を使うため、基礎筋力をつけるまでの孤独で長い鍛錬を経る必要があるからだ。練習場所は駒場キャンパスの体育館だったので、4年間その駒場通いだったのも良かった。大学時代の知人で今でも付き合いがある人は同級生は皆無で、体操部の同期や先輩後輩が殆どだ。

中高に体操部はなかったので、まったくの初心者だったが、ゼロから一つずつ教えて貰って上達していく面白みはあった個人競技なので上達すれば点数が上がっていくので、地道に努力を続ければ着実に上達していくことと、一人でできる競技というのが自分にピッタリだったので、器械体操は社会人でも現役を続けた。まだビデオカメラが高価だったのでできなかったが、自分の演技を撮影して繰り返し修正を加えて練習できたら、もっと早く上達しただろう。体の動きを知るということで、大学時代にパントマイムを習っていたこともある。バレエやダンスなども少し研究したものだ。

あと趣味的なところでは、一つ目はスキューバダイビング。山も好きだったが海も好きでスキューバのライセンスを海外で取得したのもこの時期。社会人になってからも含め、何回か東南アジア方面に潜りに行ったことがあるが、近場の国内では潜ってないし、それほど熱心でもなかった。目的地は風光明媚だが、まあ東南アジアは空港周辺含め一瞬たりとも気を抜けない危険な匂いがして、海外旅行はとにかく疲れた。あとは、自転車でもそれなりに距離があるが、自宅から駒場キャンパスに通うこともあったので自転車は結構乗っていて、奥多摩方面に一人で、あるいは器械体操部の強者と山中湖方面に自転車でツーリングに行くこともあった。

あとは国内の長期旅行に2回行ったことだろうか。北海道へは男二人旅、九州は一人旅だったと記憶しているが、どちらも10日~2週間程度、電車の旅で周遊券を使い、宿泊はユースホステルを利用するというもの。北海道の旅は台風直撃で道路が寸断され、知床半島だけ巡れなかったのが残念だったのと、九州は雨の山中で道に迷い、山であわや遭難という経験も。特に現地の人との交流もなく、旅行は自分には合ってないということが確定した時期かもしれない。今や部屋に居ながらにして、全世界の風光明媚な風景や美術館巡りもできるいい時代になったものだ。

話は逸れるが、大学教育まで含めて振り返って、日本の教育内容に一言。少なくとも自分に必要なかった教育として挙げられるのは、まず国語の作文。小中学校あたりの作文は殆ど感想文を書かせるだけ。感情表現は芸術系の授業に移してほしい。文学作品鑑賞や解釈みたいなものに正解はないんだし、積み上げ型の勉強になるものではない。国語は接続詞の使い方や論理的な文章作成手法などの訓練を繰り返しやって、みんなが論理的な日本語を話せる/書けるようにして欲しい。仕事でも、それはみんなが実感しているのではないだろうか?

そして、大学の第2外国語は意味がわからない。英語ですら10年教わってもまともに話せないのに、いわんやをやだ。2年間やる無駄は勘弁して欲しい。物凄く労力を割かされた。そして英語も大学でやるべきことなのか、大抵英文学を読むみたいな非実用英語しかやらないし。やるなら、専攻学科を英語で授業したらどうだろう

そして最後に就職活動について触れよう。前述のとおり、勉強は広く浅くしかできない自分が、学問を究めるなどという選択肢があるはずもなく、すぐに就職して稼いで独り立ちする道以外に考えられなかった。理系の工学部などだと、教授がメーカーと通じていて就職の際に推薦して決まる場合が多いようだが、そういうツテは無かったので、自分の場合は自力のみ(学科の先輩などのコネもツテもなし)で普通に正攻法で当時の就職協定を完全に順守して就職活動を行い、2-3社から内定を頂き、希望の会社からの内定を頂いた。

コネは無かったし、そういう恩の貸し借りみたいなのは昔から嫌いだったので、一般試験と同じで、普通に受けて内定を貰って入社する以外の方法に興味もなかった。当時はパソコンが流行り始めた頃で、当時人気急上昇のNECに入れた。まあ、大企業で人気企業に無難に入っておこうという程度のことしか考える能力はなかったし、仕事とは何か右も左もわからないので、それでよかったと思う。とにかく渦中に入ってやってみないことには始まらないという考えは、今でも変わっていない

就職先に関しては、教養学科全体としてはカバーしている専攻分野が広いので、先輩たちが行く先は様々な業種に亘っていた。分野の近い学科の卒業生の就職先はメディア企業が多かったので、NHKとかも候補だったが、就職試験を受けた記憶はない。あとは、入る気はなかったけど、何事も経験と思い(なぜか)リクルートを受けてみた。性格診断的な?ペーパー試験の後、数人ずつの集団面接までは記憶がある。集団面接はみんな自己主張が凄くて、俺が俺がという人たちの受け答えに圧倒されたというか、この賑やかな人達とは仕事したくないなと確信したことは記憶している。この辺りの対人意識は昔から変わっていない

武蔵への入学も、東大への入学も、NECへの就職もゴールではなく、単なる新しい始まりの初期値でしかなかった。が、またそれら一つ一つが重要な分岐点でもあったと思っている。仕事をする前提で必要となる基礎体力、基礎知識、最低限の道徳性は、なんとかクリアできていたのではないだろうか。人としての道から外れることなく踏ん張った自分を褒めてやりたいし、親からの支援、様々な良好な外部環境があったことには感謝しかない。

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自分史(~小学生時代)に続いて、こんどは中高時代について書いていく。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・中高時代
中高は最寄りの公立よりさらに近い場所にある私立男子校の武蔵に通う。徒歩か自転車で通ったので楽だった。自由な校風で、校則は聞いたことがない。「下駄は履いてくるな」の言い伝えくらいだろうか。新入生が入った直後の4月には、水投げ(詳細省略)の洗礼があったりした。中学の社会科と国語は、教師の趣味みたいな内容だったが、中高一貫校の強みで中学は自由度が高かったということだろう今は大学受験における私立御三家みたいな一角からは外されていると思うけど、進学校と呼ばれる割には当時から学校が勉強を強制してガンガン指導していくことは少なかった。建学の理念の一つに「自ら調べ自ら考える」とあり、自分でやれっていうことなんだろう。これはいまだに自分の生きる原則として体に染みついている

学校行事は、中1に山上学校、中2で海浜学校、中3で地学巡検、毎年の強歩大会(30-35kmくらい走る/歩く)、スキー教室(任意参加)などの野外活動と、記念祭(文化祭)や体育祭などがあった。最初の中1?の強歩大会では、多分ゴールまであと2kmもないくらいの所で動けなくなって(体力がないw)搬送された苦い思い出も。入学式や卒業式などは大学の講堂で行われ、校歌を歌う機会もその程度だったので、校歌殆ど覚えられなかった。同じ敷地にある武蔵大学の施設では、図書館とプールをよく利用した。

部活動は任意だったが、いろいろフラフラした。中学で最初は気象部に入ってみたが、麻雀クラブみたいな感じだったのでやめたが、気象観測とか嫌いではなかった(今でも気象は興味の対象)。そして大きく方向転換して体力もないのに山岳部へ。ここは持久力の鬼みたいな人達の巣窟なのに、全く持久力のない俺が入ってトレーニングでも足を引っ張り、縦走などの長距離重装備(もちろん持参のテント泊)の山行でもすぐに潰れるし、よく2年くらい続けてやったものだ。粘り強く諦めない根性みたいなものは、この時代に養われたと思う。何度も登山道から離れて藪漕ぎをしたり、岩登りの初歩の沢登りもしたりと、多少危ない経験も楽しい思い出となっている。

山岳部では月例山行の他に、1週間未満の縦走や1週間程度のスキー合宿を何度か経験。八方尾根に学校の山小屋があり、スキー合宿はそこでの自炊生活。風呂もなく自分達でストーブも薪で焚いた。冬山は八方尾根のゲレンデから上の「上の樺」より少し上くらいまで登った程度で、雪上訓練はゲレンデでアイゼンとピッケルの練習だけ、本格的に雪山の頂上を目指すような経験まではない。

スキー合宿ではOBに教えてもらう形式なのだが、残念ながら上手くなることはなかった。自分で考えて試行錯誤しないと上手くならないのはこの頃からだ。実はスキーは自分で考えて練習してメキメキ後から上達したものだ。合宿を終えても山荘に残ることができたが、その時だと思うが、一人でスキーをしている最中にリフトの鉄柱に激突してしばし気絶していたところを多分部員が見つけてくれ、麓の病院へ搬送される事故があったことは記憶している。

山岳部での厳しいトレーニングの甲斐あってか、持久力は辛うじて人並み程度になったことは疑いの余地はない。基礎体力や筋力はこの時に養われた。ただ午後の練習で疲労しすぎて夕食が進まず、成長期を逃してチビのままになってしまったのは残念か。山岳部でダメ部員のまま上級生に残ることは無理と判断し、サッカー部へ。こちらはぎりぎり試合ができるくらいの部員しかいなかったので弱かった。自分はキック力はないし、やはり足を引っ張った方だったと思う。単独行を除けば山登りも集団行動だし、チームで行うスポーツは、自分には合わないということを痛感した時期だった。

スポーツでもう一つ言うと、自分は大きな球を扱う球技(サッカー、バスケ、バレー)は比較的得意な方だったけど、小さな球を扱う球技(テニス、野球、卓球)は苦手だった。まあ、概ね背が低いとスポーツは不利なので、いずれにしても小学校時代と同じで、すばしこく動き回るので一見うまそうに見えることもあるが、実際はそれほどでもない平均的な感じだったのではないだろうか。

学校以外の遊び/趣味は、ギターを弾いたり(単音だけの)シンセで遊んだりの「やる」音楽と、洋楽を中心に「聴く」音楽、自転車でフラっと近所を1時間くらい乗り回すなど、どれも一人でやれるもの。洋楽は全米トップ40をラジオで聴くのが主な情報入手の方法。高校後期はプログレが好物になった。同期にはバンドを組んでいる奴も多数いて、視聴覚教室でライブやっているのを見たこともあるが、爆音過ぎてバンド活動には興味は湧かなかった。またどんどん視力は悪くなる一方なので、テレビ以外の「見る」エンタメ(映画を見るとか)は避けていたし、今でも映画は細かい字幕に集中しなければならないと頭が痛くなるし苦手だ。3Dメガネとかも、すぐに気持ち悪くなり30秒が限界。

中学でよくやったことは二つ。まず水泳を徹底的に練習したこと。小学校ではやっと25m泳げるくらいのレベルだったが、自己流にしろ平泳ぎであればゆっくりなら幾らでも(休まず1kmとか)泳げるようになった。夏休みには、中高のプールと大学のプールが交互に毎日12-15時?に自由に利用できたので、家も近いのでほぼ毎日通っていたと思う。中2の海浜学校のクラス分け(Aランク~Eランクくらいまで?)ではBランクとそこそこ泳げる部類に入った。海浜学校では遠泳、深さ5m程度までの素潜り、サーフィンもさせてもらえた。海岸近くに50mはあろうかという岩をくりぬいたトンネルを通ったものだ。その海浜学校の施設も今はない。ということで水泳徹底的にやったスポーツの例か。山も海も自然の美しさと厳しさを学べた

二つ目は小説を何百冊も読んだこと。小説を読んだ理由は、国語が全然ダメだったので、何故か小説を大量に読むとよいのではないかという妄想に囚われて、著名な作家達(夏目漱石とか)の全作品を読破するみたいな感じで貪り読んだ。恐らく大学受験の役には全くなっていないと思うし、夏休みの多くの時間を費やしたりで、今思うと無駄な時間だったと思うが、活字に全く抵抗がなくなったくらいな効果は認める。後に出版社に勤めることになるのは偶然だが。

手元に残っている成績表を確認すると、中学時代はざっくり言えば学年平均より少し上回るくらい。数学だけは安定して出来る方だった。高校は学年平均的な資料はないので、相対比較はできないが、やはり数学は平均より出来る方だったと思う。各学期ごと科目ごとに10点満点絶対評価方式?だったが、6年間を通して各学期平均点は8.0±0.3くらいにほぼ入っていて(ちなみに最大は8.9、最低は7.5)、やる気の激しい上下動はなく、比較的安定していた方だろうか。

勉強は基本的に自己流。数学は好きだったので、中学3年くらいからは授業とは関係なく勝手にどんどん上の学年レベルの学習に突き進んでいった。兄が同じ学校だったので学校独自の教科書のお下がりを参考にしていたような気がする。高校2-3年くらいになると、当時でも予備校に行く人も多かったのではないかと思うが、自分の場合は殆ど通わなかった気がする。通信教育のZ会のテスト?を何教科かやっていたと思うが、基本的には受験参考書や東大過去問集、後はやはり兄が行っていた予備校の教科書のお下がりが中心だったように思う。この頃も、塾に通うのは面倒だったし、人から教わって上達するという方法論に懐疑的だったからかもしれない。今振り返ってみると、ある程度効率的に学習するために指導をしっかり受けてみることを試してもよかったかなとも思う。

受験に関して言うと、理科は得意ではなかったが、記憶力は頼りないものだったので、早くからコースとしては理系だろうとは思っており、何となく東大理科1類を目標としていた。ただ高3の外部模試などでは、合格ラインには達してない評価ばかりだったと思う。最終的にはランクを落として(それでも模試で合格ラインぎりぎり以下くらいだと思う)理2で受験して、幸いにして合格できた。多くの人は試験とか人前での発表の時に、緊張で普段のパフォーマンスを出せないとも聞くが、自分は不思議に変な自信だけはあって、本番に強いというのか全く緊張しないのが強みだと今でも思う。社会人になって仕事でもそう感じるが、しっかり準備したら、あとはどんな結果や評価になって受け止める開き直りみたいな気持ちが功を奏するのだろう。

交友関係だが、学校の中では、中1でとある友人といつも将棋をしていたり、高校では集団でミニサッカーなどの球技で遊んだりしたものだ。自分では殆どやらなかったが、麻雀、パチンコ、競馬、賭け事、酒、その他と素行の悪いことは大体、中高の時代に見聞きした感じだろうか。全般的には群れない性格は相変わらずだったようで、話しやすい友人は複数いたが、常に行動を共にする親密な関係が長く続く友人は殆どいなかったと思う。友人からの愛称は「イブ」が多かったが、書くのが憚れる呼び名で呼ばれることもあったのは内緒だ。

そうは言っても、校外では、高校時代にはサッカー部の同期の何人かで、夏に彼らの一人の軽井沢の別荘に数日泊まったり、紀伊半島の海岸にテント張って数日過ごしたりしたことがある。軽井沢では、山中の自動車専用有料?道路に自転車で無理やり進入し、10km以上?の距離を走りきって、出口のゲートでこっぴどく怒られたりと、結構やらかしたのは覚えている。海岸でのテント生活の方は、詳細の記憶はすでにないのだが、自炊設備を携行した覚えもなく、どうして食を繋いだのか謎だ。

もちろんたまに開かれる同窓会などでは、いろんな人たちの話の輪の中に入っていくことは普通にできるのだが。そんな同期には結構凄い奴が沢山いるのが誇らしい。現在の肩書とは限らないが、外務事務次官、上場大企業のトップ、最高検察庁検事、紫綬褒章受章者、学者、弁護士、医師、作家、各種企業/官公庁/団体のトップも多数と、多士済々。Wikipediaに掲載されている人物は確認できたものでも9人いる。今深く交流している同期はいないが、この同窓会だけは唯一行く意味を感じる大人数での懇親会と言えるだろう。自分がいるインターネット関連業界みたいな世界とは全く違う、いわゆる伝統的な業界や職業についている人達ばかりで、自分が如何に異端の存在であったかも実感できる

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仕事もそろそろやめることになるし、今までの人生を軽く振り返って、現在の記憶や記録などから整理しておくのも良かろうということで、書いてみる。なおこの回顧録には自分以外に登場する人達がいるが、直接的な人物名の記載はない。但し一部所属や肩書などの記載から推測できる場合はあるが、自分との関係性の文脈で必要最小限にしか触れていない。

・幼稚園まで
生まれは東京都のどこかだろう。5歳程度までの記憶はゼロ、大泉学園に住んでいたらしい。記憶にある最初の風景は、桜台に移ってからの幼稚園だ。恐らく園長先生を除いて、同級生含め人の
記憶は全くない。

・小学生時代
小学校は普通に最寄りの学校へ行った。1学年は約50人で6クラスだから300名くらいいたと思われる。1-2年/3年/4年/5-6年と3回クラス替えがあり、それぞれを担任した4名の先生と、音楽/図工の先生の顔は思い浮かぶ。図工の先生からビンタを何度も食らったことは記憶に鮮明に残っている。なぜなら、中学以後体育会系部活に入るような学生生活になるが、一度も指導者や先輩後輩間での暴力を体験していないので、余計に記憶に刻まれている。親からは悪さをしたときに、たまに尻をペンペンされることはあったが、基本的に暴力とはほぼ無縁でいられた。

校舎の教室や体育館、プールや校庭や遊具に至るまで比較的鮮明に覚えている。学校前には文房具屋さんがあった。学校前の狭い路地で、毎月学研の「学習と科学」の露店販売で賑わっていた記憶がある。通学路以外の細い怪しい道もよく通ったものだ。

通知表が残っているので、それを確認すると、6年を通して、年間の欠席日数は一桁と少ない。心臓に穴が開いているなどと言われていた割には、今振り返ると、病気がちで欠席が多かったのではなかったということだ。自分でも虚弱で弱いイメージだと思い込んでいたようだ。

算数の成績は2年生から基本的に5段階の5、体育は1年生から4以上、5-6年は音楽図工以外はすべて5。低学年から算盤塾に通っていたので、それが算数を上達させたことは間違いないと思う。学外では低学年からピアノ教室や書道教室に通ったけど、長続きはしなかった。興味も才能もなかったということ。学校の通知表の通信欄を読むと、授業態度は6年通して概ねよい/凡ミスが多くて勿体ないといったコメントが多く、4年生までは私語や大声の指摘が散見する。指摘されればきちんとするけど、放っておくと落ち着きはなく自由奔放っていう感じだったのかなと。

意識して特定の友人と群れることは特になかった。先生が変わった3回のタイミングでクラス替えもあったが、同じクラスで仲良く遊ぶ友人はすぐに作れていた印象だ。6年間同じクラスだったのが二人いたのは覚えている。最後の5-6年のクラスメートの記憶はそれなりにあるが、4年以前の記憶は薄い。そして彼らとは中学以降の交流は一切ない。自分は苗字も名前も特殊だから、いじめの対象になったかというと、6年間通してそういう記憶はない。

給食はパサパサのパンにマーガリン、牛乳におかずという時代。美味しいと思ったこともなく、残さず食べろという指導は当時からあって、給食はどちらかというと苦痛だった。朝の便通も快便ということもなく、腸の調子は不安定だったので、現在に至る「食に興味がない」原点はこの辺りから始まっていると考えられる。

運動会、修学旅行、卒業式などのイベント事には興味がなかったせいか、それらの記憶は殆どない。修学旅行で就寝時の2段ベット?みたいな風景だけ微かに覚えがあるが、どこへ行ったのかすら記憶にないw あとイベント事は大抵体育館の2階(1階はプール)で行われていた。学校行事ではないが、高学年の頃に大阪万博があったが、父と兄は大阪まで見に行ったが、俺は興味がなく行かなかった。人嫌いではないが人と群れない、人混みは嫌い、イベントは面倒なだけで興味ない、という性格はこの頃からだ。

体格はチビだったけど、運動神経は良かった方だと思うので、校庭での遊びや反復横跳び/垂直飛びなどの俊敏性を試す計測では常にクラスの中でトップクラスだった。しかし持久力や筋力はなかったので、短距離/長距離/遠投みたいなものは普通だったと記憶している。そう言えば、学校の雲梯で遊んでいる時に持ち損ねて、背中全体で落下して10秒くらいだろうか息ができなくなったことがあるのが、死ぬかと思った最初の経験になるだろうか。まあ世間ではよくある事のようだが。

家での遊びは、庭に柿の木があったので木登り、庭の土を掘って泥遊びなどよくやっていた印象。親父や兄とキャッチボールはしていた気もする。バットでボール打ち返して向かいの家にボール取りに行ったこともよくあった。遊び仲間のお宅へ何人かで押しかけて遊びに行くことはあったようで、何軒かその家付近の光景が思い出される。自分の家に呼んだことはあまり記憶にない。めんこ遊びなど路地での遊びをしていたことが多かった気がする。

高学年になると、算盤教室もやめて進学教室に通い、ガリ勉君になっていったので、そのころから既に近眼でメガネをかけていた。進学教室で毎週のようにあるテストの上位100人?などが誌面で発表される。そこにランクインすることは殆どなかったが、志望していた私立武蔵中学に合格できた。その当時の塾の成績の記録などは一切保管してないので、よく覚えていないが、塾で一緒によく遊んだり話をする友人は何人か居た。平日夜の塾や、土日のテストとか2年以上よく通ったものだ。塾は中野にあり、テスト会場は池袋、四谷などが多かったような記憶があるが、いろんな場所に出向いたものだ。

まあ、ここまで総じて考えると、親には様々な教育の機会を与えて貰ったことへの感謝しかない。と同時に、基本的な身体的能力や性格はこの時代から変わっておらず、生まれつきのものが多いともわかる。

当時の町の様子を振り返ってみると、駅前は線路の両側にお店が沢山あり、本屋は複数、煙突の高い銭湯もあった。駅から少し離れた自分の家の近くにも、八百屋、酒屋、小さな医院や歯医者、畳屋があり、様々な商売が成り立っていた。上にも出てきた算盤塾やピアノ教室や書道教室なども街中にあった。そう言えば、金魚すくいもできる屋根のない金魚屋、少し遠くには私営のプールがあって、たまに行ったこともあるがいつも大混雑だった。チンドン屋が家の前を普通に通っていた。いろんな記憶が芋づる式に蘇ってきたw 近くに豊島園があったが、あまり子供の頃に行った記憶がないが、親が連れて行ってくれなかったのか、自分が行きたがらなかったのかは定かではない。

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2021/11/16

2021/9広告業売上、全体では前年同月比20.7%増、マス4媒体は同8.7%増、ネット広告は同25.1%増

2021/11/16の経済産業省の特定サービス産業動態統計調査から。http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/tokusabido/result/result_1.html

全体では前年同月比で20.7%増で、6カ月連続の二桁増。前年度の大幅減の反動で今年度大幅回復の傾向になっている。

新聞は8.1%で、2カ月連続でマイナスに雑誌は0.4%減で、3カ月連続二桁増からマイナスへ。テレビは同12.5%増。ラジオは同2.6%減

インターネット広告は25.1%増と今年に入って二桁増が続いている。屋外広告は27.2%増。交通広告は5.1%減で、2カ月連続二桁増からマイナスへ。折込・ダイレクトメールは9.7%減と、こちらは3カ月連続でマイナス

全体としては、2020年が大幅減と異常値だったため、2021年度の数字は、対前年同月比でなく2019年度対比でみるのがよさそうだ。



2021/10/19

2021/8広告業売上、全体では前年同月比25.2%増、マス4媒体は同21.6%増、ネット広告は同35.1%増

2021/10/19の経済産業省の特定サービス産業動態統計調査から。http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/tokusabido/result/result_1.html

全体では前年同月比で25.2%増で、5カ月連続の二桁増。前年度の大幅減の反動で今年度大幅回復の傾向になっている。

新聞は1.3%で、プラスは5カ月連続でストップ雑誌は14.5%増で、3カ月連続二桁増。テレビは同26.4%増。ラジオは同3.4%減

インターネット広告は35.1%増と今年に入って二桁増が続いている。屋外広告は31.0%増。交通広告は22.3%増で、先月に続いて二桁増と回復。折込・ダイレクトメールは9.2%減と、こちらは2カ月連続でマイナス

全体としては、2020年が大幅減と異常値だったため、2021年度の数字は、対前年同月比でなく2019年度対比でみるのがよさそうだ。



2021/09/15

2021/7広告業売上、全体では前年同月比28.6%増、マス4媒体は同24.3%増、ネット広告は同39.5%増

2021/9/15の経済産業省の特定サービス産業動態統計調査から。http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/tokusabido/result/result_1.html

全体では前年同月比で28.6%増で、4カ月連続の二桁増。前年度の大幅減の反動で今年度大幅回復の傾向になっている。

新聞は14.1%で、5カ月連続のプラス雑誌は19.5%増で、2カ月連続二桁増。テレビは同27.3%増。ラジオは同8.5%減

インターネット広告は39.5%増と今年に入って二桁増が続いている。屋外広告は1.4%減。交通広告は12.5%増で、マイナスは15カ月でストップ。折込・ダイレクトメールは4.9%減と、5カ月ぶりのマイナス

2020年度が大幅減と異常値だったため、2021年度の数字は、対前年同月比でなく2019年度対比でみるのがよさそうだ。